温暖な気候と風光明媚なことで知られる瀬戸内海。なかでも、とくに景色が美しいことから、平安の昔から都の貴族たちも憧れて、多くの和歌にも詠まれてきたのが「須磨の浦」。源氏物語にも登場する名所です。
六甲山地の西の端に位置する標高の低いエリアなので、冬でも雪が降るようなことはほとんどなく、寒い季節に気軽に歩くのに最適の山域なのです。
そんな須磨エリアで、海辺から源平合戦の史跡を通り、一山越えて、霊験あらたかな厄除けの古社を目指すコースをご紹介します。
青く輝く海が眩しい須磨海岸をスタート
JR神戸線で西へ向かうと、須磨駅の手前から海岸線のすぐそばを通ります。そして須磨駅で降りると、すぐ目の前が白砂輝く須磨海岸。

夏は仮設の「海の家」が建ち並び、海水浴客で賑わう須磨海岸も、冬はとても静か。目の前には波の穏やかな大阪湾が広がり、西を見れば淡路島と明石海峡、東には大阪府と奈良県の県境をなす山並み、はるか南の沖合には紀伊水道に浮かぶ友ヶ島を望むことができます。ここを出発して20分ほど西へ進むと、源平合戦の古戦場跡です。

源平合戦の地を巡る
須磨浦公園内に「戦の濱碑」と刻まれた石碑が建てられています。このあたりから背後の山にかけての一帯が、源平合戦の舞台となったと伝わる「一の谷」です。
碑のすぐ山側で山陽電鉄の線路をくぐり、急な階段を登っていくと、高台の住宅街の中に突然現れるのが「安徳帝内裏跡伝説地」。

木立に護られるように鎮座している、こじんまりとした祠が「安徳宮」です。源平合戦の最後、瀬戸内海を西へと敗走した平家の滅亡のとき。壇ノ浦で海の藻屑と消えた、まだ幼かった安徳天皇をお祀りしています。合戦のときには、このあたりに幼帝の御座所があったのでしょうか。
歴史ファンには垂涎の地ですが、もうひとつ幕末の歴史を語るものがあります。
幕末の頃、第120代仁孝天皇の第八皇女である和宮さまの像です。

開国を巡って激しく対立した朝廷と幕府の関係修復のため犠牲になった宮さま。7歳のときに有栖川宮熾仁親王と婚約し、仲睦まじくお育ちになったのですが、その婚約を破棄させられ、17歳で徳川幕府の第14代将軍家茂に降嫁されることに。
「惜しまじな 国と民との 為ならば 身は武蔵野の露と消ゆとも」という切ない御歌が残っています。
その後、熾仁親王が総指揮となった官軍が、江戸幕府へ向けて総攻撃をかけようとしたとき、和宮さまの懇願によって江戸の町は戦火を逃れることができたと伝えられています。
「逆落とし」の舞台かもしれない急崖を登る
安徳宮を後にし、さらに住宅街の坂を登っていくと、いよいよ山道へ入ります。古い屋敷跡のような感じの薄暗い竹林の中の道を進んでいくと、急な長い階段が現れます。

階段がないととても登れそうにもない、急な斜面です。現在は土砂災害防止のための山腹工が施されていますが、こんな傾斜の斜面を義経は本当に馬で駆け下ったのでしょうか。
平家軍はこの崖を背後の護りとして海側に布陣していたそうなのですが、裏手の山の上からアプローチした義経が、シカが斜面を下っていくのを見て、
「鹿も四つ足、馬も四つ足」と、自ら先陣を切って駆け下ったと伝わります。
でも。
身ひとつの野生のシカと違って、義経軍の馬たちは、重たい甲冑に身を固めた武者を乗せてたわけですよね……。ちょっとかわいそうな気がするのですが。今だったら動物虐待?
息を切らせながら、急な階段パートを登りきると、須磨海岸が見えるスポットです。青い海が足下に見下ろせ、疲れも吹き飛びます。

このあたりの海の中には、海苔の養殖棚がたくさん作られていて、冬場はまさに生育シーズン。ここで採れる「須磨海苔」は、香りがいい上、海流の流れが速いことから、しっかりした歯ごたえになるのだとか。須磨に来たら、いつも自分用のお土産に買い求めます。
斜面を登り切ると、「六甲全山縦走路」に合流。ひとつめのピークが「鉄拐山(てっかいさん)」です。

海側の眺望が開けていて、須磨海岸から神戸の市街地、そして六甲山の山並みが遠くまで見渡せる絶景スポット。
縦走路をさらに進むと、小さな分岐があります。ココで縦走路とは分かれて、ちょっとしたバリエーションルートで、多井畑方面へと下ります。


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